
テーマ:「ベン・シャーンの肖像画」
講師:丸沼芸術の森 学芸員
展示作品
《エステラジー》1931年 グワッシュ、紙
《マサチューセッツ州知事、アルビン・フラー》1931年 テンペラ、紙
《我々は平和を望んでいる》1946年 ポスター(カラーリトグラフ)
《ガンディー》1965年 コロタイプ
《マーティン・ルーサー・キング牧師》1965年頃 鉛筆、紙
現在では「ラッキー・ドラゴンシリーズ」で知られるベン・シャーンは、1950年代から70年代にかけて、日本の多くの画家やデザイナーに影響を与えました。その理由はシャーンの作品の手描きの柔らかな作風にもありますが、むしろその社会的姿勢の影響が色濃いものです。戦後日本では第五福竜丸事件を受けての原水爆反対運動が盛り上がっていた中、アメリカの世界的な画家が、作品を通して日本人に近い立場で意見を表明してくれたという事実は実に大きいものでした。また反戦運動など、平和を求める声が非常に大きかった社会状況の中で、芸術家も声を上げなければいけないのでは無いか、との機運が高まっていた時代に、先駆者としてベン・シャーンの存在がありました。近年は、ベン・シャーンの作品を見かける機会は決して多くは無いものの、実はその影響を受けたデザイナーによる作品は今も私たちの身近なものです。
シャーンが初めて社会的事件を作品のテーマとして描いたのは「ドレフュス事件シリーズ」です。ドレフュス事件とは、1894年、フランス軍の軍事機密漏洩を巡る冤罪事件です。フランスは1870-71年の普仏戦争でドイツに首都パリを占領された事から、ドイツに対して大きな敵対心を持っていました。普仏戦争後、フランス陸軍内部の機密情報をドイツに流しているメモが発見されました。フランス陸軍は捜査を行い、筆跡が似ているという理由でユダヤ人大尉、アルフレド・ドレフュスを逮捕します。フランスのマスコミはこの事件を、ユダヤ人は売国奴であると偏見に満ちた報道を行います。ドレフュスの無罪の主張にも関わらず、軍法会議で終身刑が言い渡されました。その後、新しく軍の情報部に着任したピカール大佐は真犯人がエステラジー少佐である事を突き止めます。しかし、フランス軍は冤罪が公となり信頼失墜する事を恐れ、ピカール大佐を左遷した上、形式的な裁判でエステラジーを無罪とします。ところが、作家でエミール・ゾラは新聞の一面に「私は弾劾する」と題して、フランス大統領宛の公開質問状を掲載しました。これによってフランス国内で、この事件を巡る世論は紛糾し、国を二分するものとなります。そして、ドレフュスを有罪とした証拠が全て捏造である事実が明るみとなり、当初の判決から10年以上経過してからようやくドレフュスの無罪が正式に確定しました。シャーンがこのドレフュス事件を描いたのは1931年、ヨーロッパへの遊学から帰国して2年後、本格的に画家として活動を開始して間もない頃でした。事件を扱ったドキュメンタリーを読み、事件に関わる主要人物を描きます。そして避暑の為に過ごしていたマサチューセッツ州トゥルロの隣人の納屋でこの作品を発表しました。まだ無名であったシャーンの展覧会であった為、話題とはならなかったのですが、社会的事件に作品の題材を求める事にシャーンは大きな手ごたえを感じました。
その翌年、シャーンは「サッコとヴァンゼッティ・シリーズ」を発表します。このシリーズはドレフュス・シリーズと同じように、事件の主要な人物、そして裁判の光景など23点から構成されます。ドレフュスは無実が証明された後に勲章を授与されるなど、ハッピーエンドとなりましたが、この事件では、偏見から強盗事件の犯人とされたイタリア移民2人は死刑を執行されてしまい、50年も経ってからようやく冤罪である事が公式に認められたものです。この裁判では、冤罪ではないかと大きな議論を呼び、世界的に二人への死刑執行に反対するデモ行進が行われました。強盗事件が発生したのは1920年、死刑が執行されたのは1927年です。ドレフュスの場合と違い、シャーン自身もこの事件と裁判の行方を報道で知り、デモ行進にも参加していました。従って、ドレフュスの時よりも一層強い思いを込めてこの作品を描いた事が伺えます。世界的に物議が醸した裁判で、死刑執行を留まるよう多くの嘆願が出されます。日本では死刑執行には法務大臣の許可が必要ですが、アメリカではその権限は州知事のものです。フラー州知事は嘆願なども考慮した末、執行を判断します。シャーンがこの事件を描き、作品を発表したのは死刑の4年後でしたから、人々の記憶に生々しく記憶されていた時期です。シャーンは契約関係にあったニューヨークのダウンタウン・ギャラリーで「サッコとヴァンゼッティ・シリーズ」を発表します。シャーンはほぼ無名であったにも関わらず、この展覧会は大きな反響を呼び、ニューヨークタイムズなどの一般新聞にも作品を高く評価する記事が掲載され、会期中に数多くの来場者を迎え、シャーンの画家としての活動のスタートと言えるものになりました。
時代が飛び、1930年代半ば以降、シャーンは多くのポスターを手掛けます。今回紹介する作品は《我々は平和を望んでいる》です。
先ほどの2作品はどちらも有名な事件に関わる人物を描いたものですが、こちらは名も無き少年を描いたものです。シャーンは1930年代、写真家としてアメリカ各地の労働者達を撮影する仕事を行い、さらに、不況に苦しむ人々の労働意欲を励ます為の壁画も描いています。《我々は平和を望んでいる》は1946年、終戦の翌年に製作されたもので、画面の下には「REGISTER VOTE」と大きなレタリングがあります。アメリカの選挙制度は日本と異なり、選挙権を行使する、つまり投票するには事前の登録が必要です。このポスターは平和を獲得する為に、より良い人に投票しよう、その為に選挙登録をしよう、との呼びかけです。さらに画面の左下には小さく「CIO」というロゴが入っています。これはCongress of Industrial Organization、産業別組合会議というアメリカの労働組合の連合組織です。市民や労働者、さらには冤罪の被害者といった弱者を常に描いていたベン・シャーンはこの頃、もう労働者達の旗印のような存在になっていたとも言えます。そしてベン・シャーンはとても多くのポスターを手掛けているのですが、その中でも非常に優れたものの一つだといわれています。画面の中心に描かれた少年は、やはりシャーンが撮影した写真の一つをヒントに描かれていると推測されます。不健康にやせ細った少年が、食べ物かお金かを求めるように手を前方に伸ばしています。このポスターはアメリカが第二次大戦に勝利した翌年のものですが、当時貧しい人がまだ大勢いたのも事実です。平和とは何か、戦争に勝つ事だけなのか?子供が飢えているのに?そして、選挙登録をしよう、投票しよう、我々の政治家は我々が選ぼう、という強いメッセージがここにはあると言えます。
そして、最後に、ガンディーとマーティン・ルーサー・キング牧師です。
ガンディーはイギリスの植民地であったインドを、非暴力運動の末、独立に導いた人物。そして、キング牧師はガンディーの思想から影響を強く受け、やはり非暴力による抵抗運動によって、アメリカの人種差別的な法律を撤廃させ、ノーベル平和賞を受賞します。芸術家として社会的なメッセージを発信しつづけたベン・シャーンが、強い信念のもと偉業を成し遂げたこの二人を描くのは、非常に自然に感じられます。
《マーティン・ルーサー・キング牧師》はアメリカの雑誌「タイム」の表紙の為の作品の習作だと思われます。《ガンディー》は、シャーンはもともと雑誌に掲載する為のイラストとして描いたものを、後にリトグラフに、さらにコロタイプで制作しており、こちらはコロタイプによるものです。このコロタイプのバージョンには「トム・ソーヤの冒険」で知られるマーク・トゥエインの「不思議な少年」という小説の一説が添えられています。この小説は中世のオーストリアの田舎町が舞台で、ある少年の前に現れた、人間の少年の姿をしたサタンという名前の天使との対話がストーリーとなっています。シャーンが抜粋したのは、いつの時代においても戦争が発生する前には、戦争を扇動する者と反対する者のそれぞれが声を発するが、反対論者は遅かれ早かれ、口を封じられ、民衆も扇動者を盲信し、反対論者に石を投げるようになってしまう、とサタンが語った部分です。およそ100年前の小説にも関わらず、この一節は20世紀の多くの戦争にも当てはまる部分があるように思われるものです。ガンディーもキング牧師も暗殺されてしまいますが、シャーンはこの文章をガンディーの肖像に添える事によって、単純にガンディーを神格化する事を拒否しているように思えます。ガンディーはイスラム教徒とヒンズー教徒が手を取り合うインド国家を思い描きます。インドのイギリスからの独立後はこの二つの宗教の対立によりインドとパキスタンという二つの国に分離し、ヒンズー教の過激派によって暗殺されます。また、キング牧師も「公民権法」の制定後、解放運動は分裂していき、かつては仲間であったはずの人々から幾度も命を狙われた末に、ついに命を落とします。後の時代になってガンディーやキングの事を偉人だと言うのは簡単ですが、その時代に生きた場合は、何が正しい事なのかを判断する事は簡単な事ではありません。つまりベン・シャーンのこのガンディー像は、見る人に対して「あなたも正しい事を語る人に石を投げる側になるかもしれない」と警告にも近いメッセージを送っているものと考えられます。シャーンは1969年に70歳で死去しますが、最晩年まで社会の動向を作品で描きつづけました。