丸沼芸術の森

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丸沼芸術の森2008年6月21日開催美術鑑賞会

テーマ=藤田嗣治
講師=丸沼芸術の森 学芸員
展示作品

「猫十態」シリーズ2作 1929年 マカール法、紙
「子ども」シリーズ2作 1929年 マカール法、紙
「女」シリーズより1作 1930年 マカール法、紙
《帽子の女性》 1936年 墨、紙
※「猫十態」「子ども」「女」各シリーズはパリ、アポロ社より出版された版画シリーズで、それぞれ100セット制作されたもの。「猫十態」「子ども」は十種、「女」は六種の版画から構成される。「マカール法」はアクアチント他による混合技法による版画。

概要
歌川広重 東海道五十三次之内 日本橋 朝之景

官能的な裸婦や愛らしい猫、一方で対極的な戦争画でも知られる藤田。その生涯と作品の変遷を辿りつつ、展示作品を紹介する。

藤田 は1886年、後に軍医としての最高職である陸軍軍医総監にもなる人物を父に生まれる。子供の頃から絵を好んで描いた藤田は、中学を卒業する頃には画家を目指し、フランスへの留学を希望する。しかし、まずは国内での専門教育を薦められ、1905年に東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科に入学する。しかし、藤田は美校での授業を「技法中心である」と不満に感じ、また卒業後も日本の美術界にはなじめず、1913年、パリに旅立つ。

「エコール・ド・パリ」の幕開けの時代、藤田はフランスの地に足を踏み入れる。藤田の住んだアパートにはモディリアーニやスーティンもアトリエを構えており、彼らを通じて交友を広げる。美校で印象派風の絵画こそ西洋画、との教育を受けていた藤田は、20世紀の新たな美術を目の当たりにし、衝撃を受ける。それまでの自身の「常識」を捨て、自らの表現を生み出そうと決意する。だが、第一次大戦の勃発よる混乱から、日本からの送金も途絶え、激しい貧困が待っていた。食事にも困り、また、寒さのあまり描いた絵を燃やして暖を取ったこともあった。だが、パリに渡って6年目となる1919年にはサロン・ドートンヌ展に入選、さらに同展の会員に推薦される。その後、フランス、ベルギー各政府からの勲章の授与、ルーブルをはじめとする各国の美術館への作品の買上、ローマ法王への謁見など、藤田は1920年代、画家としてこの上ない成功をヨーロッパで手にする。

藤田の描く裸婦の乳白色の肌は「グラン・フォン・ブラン(すばらしい白の地)」と評された。当時、絵具を厚塗りにした絵画が流行していた中、晴信や歌麿らの浮世絵の肌にヒントを得て、あえて薄塗りの淡い色合いで表現した肌は「磁器のようである」と絶賛される。だが、その肌をどのように描いたか、藤田は生前決して明かさなかった。だが近年行われた、修復作業にともなう研究でその手法が明らかになる。通常のカンバスは、布地の上にニカワが、さらにその上に白い顔料が塗られるが、藤田の場合は布地の上にニカワ、その上に顔料ではなく、レントゲン写真の現像に使う硫酸バリウムを塗り、さらに炭酸カルシウムと鉛白(白色顔料)を1:3の割合で混ぜた絵具が塗られていた。炭酸カルシウムは油と混ざるとわずかに黄色を帯びる特質があり、薄く絵具を塗る画面で美しい肌を表現する為に、下地となるカンバスに着目したのがその秘密であった。

ヨーロッパで最大の評価と賞賛を得た藤田ではあったが、日本での反応は異なっていた。1929年に一時帰国し、開催した展覧会は多くの来場者を集めるが、美術関係者からの評価は低かった。パリの芸術家達は当時の日本の常識からかけ離れた奔放な生活を送っており、ゴシップが付き物であった。パリでは数あるゴシップの1つに過ぎなくても、日本では「日本の恥さらしの藤田」といった形で広まっており、作品も「手先の技術で描いただけのもの」とされた。

1930年代、藤田はパリと日本の往来、そして南北アメリカへの3年間に渡る旅などを行う。その間、20年代に高い評価を得た「乳白色の肌」を離れ、巨大な壁画の制作など、新たな絵画への挑戦を繰り返す。その理由の1つは日本の美術界で評価を得られない事から、より大きな画面で、直接、多くの一般の人々に訴えられる壁画に可能性を感じたからであった。そして藤田は遂に日本でも高い評価を勝ち得る。だがそれは裸婦像でも、巨大な壁画でもなく戦争画によってであった。

「国民総動員」による戦争が進む中、藤田はそれまで対象としていた一部の富裕層では無く、全国民に向けて描く戦争画に渾身を込めた。多くの戦争画の中でも、当時、藤田の戦争画は特に高く評価された。中でも《アッツ島玉砕》(1943年)が公開された展覧会場では、作品の前に賽銭を供え、膝を付いて手を合わせる老人の姿もあったと言われる。だが終戦により状況は一変する。戦犯の公職追放などが行われた中、美術界でも戦争責任が問われるのでは無いか、との危機感が広がり、藤田に近づくものはいなくなる。美術関係者への戦争責任は公的には一度も裁かれなかったが、藤田に対する非難の声は高まり、また、過去のゴシップも蒸し返される。戦争中は多かれ少なかれ戦争協力を果たした美術界が、藤田をスケープゴートにしたのでは、との見方も近年ではある。疲弊した藤田は1949年、再び日本を離れ、二度と帰国する事はなかった。

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