丸沼芸術の森

〒351-0001 埼玉県朝霞市上内間木493-1
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丸沼芸術の森 美術観賞会  2012年2月25日開催

テーマ:「彫刻家・佐藤忠良」
講師:丸沼芸術の森 学芸員
展示作品
①《浜の女(小)》 1959年頃 ブロンズ
②《冬のこども》 2006年 ブロンズ
③《風の子》 1955年 ブロンズ
④《おくるみ》 1971年 ブロンズ
⑤《みのり》 制作年不詳(2006年以前) ブロンズ
⑥《座る裸婦》 1977年 鉛筆、紙
⑦《やせた女》 1953年 ブロンズ
⑧《帽子2003》 2003年 ブロンズ
⑨《庭の木蓮、電線にとまる鳥》 1995年 鉛筆、紙
⑩《樹(井の頭公園)》 1999年 鉛筆、紙
⑪《落ち葉》 1999年 水彩・鉛筆、紙

丸沼芸術の森では佐藤忠良作品を多数所蔵しており、以前の鑑賞会の他、2008年に当展示室で「佐藤忠良の小宇宙」と題した展覧会を開催するなど、これまでにも何度かご紹介する機会を設けてきました。没後1年ということで、彼の作品を今一度じっくり見ていただきたいと考え、今回の展示を行う運びとなりました。

佐藤忠良は1912年(明治45年)7月4日、宮城県黒川郡落合村舞野(現在の大和町)の農家に生まれました。6歳の時に父を亡くし、母の実家がある北海道夕張町に移住。そこで小学校の6年間を過ごします。中でも後の人生に影響を与えたのは、5・6年生時の担任の先生でした。既に描くことが好きだった忠良に、図工以外の授業時でも「忠良は絵を描いていい」と言ってくれることが度々あり、先生が忠良の作品を展覧会に出品したところ受賞したという出来事もありました。

この尋常高等小学校を卒業する頃、母が女手一つで忠良と弟を育てていることを考えれば、高等科に進み商店の小僧さんになるのが当然と思っていたそうですが、母と先生の勧めもあり、中学校進学を目指すこととなります。夕張には中学校がなかったので、受験勉強の末、札幌第二中学校(=札幌二中。今の札幌西高等学校)に入学し、下宿しながら学校に通い始めました。この札幌二中時代に10歳年上の岩瀬久雄さんという、北海道大学農学部の実験助手で群馬県出身の青年と出会い、彼と一軒家で共同生活を送り始め、身の回りのこと一切をしっかりと、手際よく行う術を身につけました。彼の影響で、家事とスポーツばかりの中学時代だったと言います。

絵が好きで学校では絵画部に在籍しましたが、当時の経済状況を考えれば“画家になる”などとは言い出せず、画集はおろか図工の教科書もなかったそうで、当時札幌で開催されていた北海道の作家の展覧会を目にすることしか、絵画を見る機会もありませんでした。家計のことを考え、母の苦労を案ずる祖父母らを思い、一度は北海道大学農学部を受験すると宣言します。それでも試験に臨むフリをして時間をつぶし、上京して絵描きになるという夢を膨らませ、図書館で美術書を借り、油絵を描いていました。しかし近所の歯科医には画家になることを諦めるよう説得され、一度はその先生の下で歯科技工士見習いとして勉強し始めます。一方油絵も続け、道内の展覧会に出品した《冬の裏街(札幌)》で賞をとり、それをきっかけに歯科書生生活には1年ほどで終わりを告げて東京に行く決意をしました。こうして当初は画家を志し、上京したのです。

20 歳の秋、東京へやってきた忠良は川端画学校に毎日歩いて通い、デッサンの勉強に励みました。学校に隣接したアパートに引越してからは、夜には教室の石膏像とイーゼルを窓伝いに自分の部屋へ運び入れ、昼も夜もデッサンをしたという、一途な修行時代をうかがわせるエピソードもあります。この頃は影響を受けた画家モディリアーニ風の人物ばかり描いた為、漫画のようになりどうしようもなくなっていたそうです。そんな中、美術雑誌でマイヨールやデスピオ、ブールデルの彫刻に魅了され、彫刻家志望へと方向転換したのでした。

上京の2年後、東京美術学校(「美校」、今の東京藝術大学)の彫刻科に入学。そこには生涯の友となる同い年の彫刻家・舟越保武もいました。彫刻を実物で見られる機会は限られており、美術雑誌から図版をスクラップしては他の学生と競い合い、パリにあこがれる学生時代を送ったそうです。美校卒業間近の約一ヶ月間、忠良は仲間と芸術論を読み、著者を訪ねて話を聞いたことにより逮捕され、留置場に入れられています。釈放後1週間でなんとか卒業制作の女の顔を作り上げたそうです。

美校卒業の翌年、3歳年下の照と結婚。3つの学校に各週1回美術を教えに行く生活を送る忠良の収入だけでは生活できず、妻は会社勤めを続けて夫を支えました。1941年に長男達郎、1943年に長女オリエが生まれますが、仕事の傍ら家事・育児をするのは忠良でした。50歳頃ようやく彫刻だけで食べていけるようになったと自ら語っています。

忠良の彫刻に影響を与えた出来事として、必ず取り上げられるのは戦争終結後のシベリア抑留です。1944年夏に召集され、妻子を残して満州へと送られます。忠良の部隊は終戦間近でソ連の猛攻撃に遭った際、足止めの役割を担う部隊とされていました。隊長の自決覚悟の「突撃」命令に待ったをかけたのが、自らの短すぎる彫刻人生に口惜しさを感じた忠良で、戦争終結も知らず逃亡した末ソ連軍に降伏、捕虜としてバイカル湖西のタイシェットまで何日も歩かされ、その地で鉄道建設のための労働を課せられました。その頃を振り返った忠良の言葉を引用します。「ああいう極端な生活条件の中におかれると、われわれ日本人同士は、あらいざらいを見せ合ってしまうことが多かった。極限の中での人と人との真情を何度美しいと思ったか知れない。けれども片方、頭の切れる人で要領のいい人は、いちはやく民主的なポーズをとり、収容所社会の見事な権力者になり、官僚的自己保全の人になる。 知識と教養とが、こんなに見事に一人の中で別の人格になって存在するものだろうかという姿をいくつも見た。」〔注1〕

帰還は1948年夏。4年ぶりの家族との再会後、本郷新の家に一人身を寄せて4年間の空白を埋めるべく様々なことを教えてもらう中、彫刻制作を再開。そして 1951年、39歳にして代々木上原に自宅兼初めてのアトリエをもてるようになり、再び家族で暮らせるようになります。そこでご近所だったのが詩人・小学校教員の岡本喬で、《群馬の人》のモデルです。岡本さんに出会って彼の顔を作りたいと思い、《群馬の人》の制作に至った訳ですが、そこに彼だけではなく、シベリアで出会った群馬出身の人々、少年期に共同生活をした岩瀬さんをも重ねていたということです。モデルのはっきりしている肖像彫刻でありながら、単に直接のモデルの姿かたちや内面を写しただけではない、忠良作品の奥深さをここに垣間見ることができます。なお、今回展示した《浜の女(小)》もこの時期の作品です。

忠良には教育方針として“いい学校に入らなくてもいいから何かものをつくる人になってほしい、好きな方向に進めばいい”ということがあったようです。その考えにもシベリアでの抑留体験が影響しています。極限の状況下でもちゃんとしていられる人というのは、自分にしかできないことがある、手に職を持っている人たちだったのです。息子の達郎は医者になり、娘のオリエは俳優として活躍してきました。ただ、実の子供たち以上に何度もモデルに起用されたのは、彫刻家(美校時代の恩師)朝倉文夫の娘・摂の娘(つまり朝倉文夫の孫)亜古でした。亜古の彫刻ばかり作っていた時期は周囲から「小児科開業」と言われたそうです。(子どもがモデルの展示作品:《冬のこども》《風の子》《おくるみ》《みのり》)

1966 年に東京造形大学が設立され、忠良は絵画と彫刻の主任教授および理事を務めることになります。大学の教え子で卒業後に助手となった彫刻家・笹戸千津子がモデルを務めた作品が1970年代以降多数制作されます。代表作《帽子・夏》、今回展示した《帽子2003》等、「帽子シリーズ」も彼女をモデルにした作品群です。

初の個展は61歳の時で、異例の大規模なものでした。同じ頃、活動は海外へも広がりをみせ、メキシコに作品が設置されたり、ヨーロッパ彫刻の巨匠(ローマのクロチェッティ、ファッツィーニ、マンズー、イギリスのムーア)を訪問したりしました。そして1981年にパリ市立ロダン美術館別館で個展を開きます。彫刻117点、デッサン20点の展覧会の中で一際評価を集めたのが《母の顔》でした。また、個展はニューヨークとロンドンのウイルデンスタイン画廊でも開催されました。

他方、1970年代以降は野外彫刻にも精力的に取り組みました。丸沼芸術の森から比較的近い所では、JR与野駅西口で1993年の《ブラウス》という作品を見ることができます。さらに、彫刻制作の傍ら図工美術の教科書製作に携わり、小説挿絵や絵本の原画も手がけています。

晩年、生まれ故郷の宮城県で佐藤忠良記念館を作る構想がおこります。死後原型ともども全作品の管理を委ねるととり決められた記念館は1990年にオープンしました。この他、滋賀県・佐川美術館の佐藤忠良館、生誕の地である宮城県黒川郡大和町のふれあい文化創造センターにも佐藤忠良ギャラリーがあります。

※補足(晩年にたくさん描いた樹や枯葉のデッサンについて)
同い年の彫刻家で親友の舟越保武のしわに関する随筆を読んだことをきっかけに、“樹木のしわには人間のしわにある狡さや歪みがない。長い年月の中で懸命に自然と闘い、耐えながら生きてきた結果としての樹のしわや瘤、干割れ、支えている根を描こう”と思い、描くに至ったそうです。「これまで、あまり手にすることの無かった路上の枯葉を手にして眺め、描く気になり出したのも似たきっかけからだった」とも語っています。〔注2〕

〔注1〕「 」内は 佐藤忠良『つぶれた帽子 佐藤忠良自伝』中央公論新社 2011年 p.95より引用。
〔注2〕佐藤忠良「独りごと」『佐藤忠良 彫刻家の眼-近年の作品を中心に』宮城県美術館 1998年 pp.8-9より引用。

*今秋の佐藤忠良展 告知*
2012年10月13日(土)~11月25日(日)の会期で、朝霞市博物館において丸沼芸術の森コレクションによる佐藤忠良展を開催予定です。詳細は後日改めて公開いたします。

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