高村光雲(たかむら こううん 1852―1934)について
江戸時代末期、下谷(現在の台東区)に生まれ、11歳の時、仏師・高村東雲の弟子となる。明治維新、文明開化、廃仏毀釈と、仏師にとって過酷な時代にありながら、木彫にこだわり続ける。西洋画の写実性に刺激を受けた彫刻を生み出し、日本における近代彫刻の礎を築く。代表的な作品としては、1893年に開催されたシカゴ万博に出品された《老猿》(東京国立博物館蔵)や、上野公園のシンボルでもある《西郷隆盛像》(1900年作、光雲はブロンズ像の原型を木彫で制作している)などが挙げられ、伝統的な木彫技法による迫真性あふれる作品で知られる。1889年、東京美術学校(現東京芸術大学)開校時には、彫刻科の教授として招致され、また、同年、帝室技芸員に任命されるなど名実ともに日本の近代彫刻の黎明期を代表する人物となる。光雲の長男であり、彫刻家・詩人の高村光太郎は著書「父との関係」の中で、父は良い意味でも悪い意味でも一職人であったが、木彫りの伝統の橋となった、と評している。光雲の指導の下、山崎朝雲、平櫛田中など多くの人材が輩出されている。