佐藤忠良(さとう ちゅうりょう 1912―2011)について
小学生の頃から絵が得意で、旧制中学に在籍する頃から画家を志す。中学卒業後は歯科医の書生をしながら公募展に作品を出品。20歳で上京し、画学校で学ぶ間、マイヨールやデスピオに感銘を受け彫刻に転向。22歳で東京美術学校(現東京芸術大学)に進む。卒業後は舟越保武らと共に新制作派協会彫刻部の創設への参加や、結婚、子供の誕生など、公私とも順調な日々を過ごすが、32歳(1944年)で召集を受け、満州で終戦を迎え36歳までシベリアでの抑留生活を過ごす。1953年には、「日本人による日本的日本人の最初の表現」と評された《群馬の人》(1952年作)が東京国立近代美術館に収蔵される。その後、高村光太郎賞や中原悌二郎賞など多くの賞を受賞、各地に佐藤の彫刻が公的に設置されている。さらには1981年、パリの国立ロダン美術館において個展を開催するなど、国際的な評価も確立。最晩年まで精力的な制作を行い、日本を代表する彫刻家として知られる。
丸沼芸術の森では佐藤忠良によるブロンズ・素描作品を100点以上所蔵している。