山崎朝雲(やまざき ちょううん 1867―1954)について
高村光雲の弟子として、師とともに日本における近代彫刻の礎を築いた事で知られる。江戸時代最後の年となる慶応3年、福岡に生まれた朝雲(幼名・春吉)は地元の仏師の下で修行、さらに二十代半ばで京都の美術商で外国人向けの彫刻作品を制作するようになる。その2年後、京都で開催された内国勧業博覧会に出品された春吉の作品が高村光雲の目に留まり面会を果たす。翌年、上京し入門。入門当初から先輩である門弟達と肩を並べる作品を制作し、また名前も朝雲に改名する。当時、光雲を中心に朝雲らは旧来の木彫の近代化、つまり旧来の仏像彫刻には無い写実性を求めていた。西洋の粘土を使った塑造と異なり、一度削ると戻す事はできない不便さが木彫にはあったが、西洋彫刻の技法である、石膏原型を大理石彫刻へ移す技術を、木彫に応用した最初の一人が朝雲であった。当時、衰退しつつあった木彫は、写実性の実現により新たな時代を迎え、朝雲ら若手木彫作家らは積極的な研究活動を行う。また、岡倉天心の影響も受け、西洋重視であった姿勢から日本独自の風合いも折衷する姿勢を取るようになる。その後、文展や帝展などでも活躍、戦前・戦後に渡って日本の彫刻界の中心的役割を果たした。