藤本能道(ふじもとよしみち 1919-1992)について
色絵磁器の発展に尽力した日本を代表する陶芸家。幼くして父を亡くし、かつて陸軍中将であった厳格な祖父に育てられる。東京美術学校(現芸術大学)への進学を希望するものの、強く反対されたが、「絵画ではなく図案(デザイン)科なら」と辛うじて受験を許される。入学を果たした藤本は自らの手でものを作りたいと考え、図案科卒業後、文部省により新設された工芸技術講習所に入学。加藤土師萌(はじめ)に陶芸の指導を受け、さらに、加藤に代わって教授となった富本憲吉の助手となる。終戦後は京都、鹿児島、和歌山と転居を繰り返す。巨大な存在である2人の師の模倣から脱却しようと、前衛陶芸に傾倒し、流政行や八木一夫と交流。1950年代は走泥社やモダンアート協会を活動の場とする。その後も自らの表現を探し求め、その関心は次第にオブジェから釉や絵付けへと移行し、鉄釉彩や赤絵の研究を始める。京都市立美術大学(現芸術大学)の講師、助教授を経て、東京芸術大学の助教授(後に教授)となり、1963年(44歳)には青梅市に開窯。研究に没頭し、絵付けと焼成を幾度も繰り返す独自の技法「釉描加彩(ゆうびょうかさい)」を開発。写実的で豊かな色彩表現を実現する。この功績により、1986年、人間国宝(重要無形文化財「色絵磁器」保持者)に認定される。また、晩年は東京芸術大学の学長も務める。