安井曾太郎(やすい そうたろう 1888―1955)について
日本を代表する洋画家。京都の木綿問屋に生まれ、15歳で画家を目指す。浅井忠が自宅に開設した聖護院洋画研究所(後に関西美術院)に学ぶ。1907年、パリに渡りアカデミー・ジュリアン(私立美術学校)でデッサンを学び、また休日には自然に親しみ、ミレー、ピサロへの興味を深め、さらにセザンヌの単純化された色面による画面構成に傾倒するなど現地での活動が本格化する中、1914年、第一次大戦の開戦と健康悪化により帰国する。翌年、持ち帰った作品を二科展(文部省による「文展」から分かれ、新世代の洋画を目指して1914年に結成された二科会による展覧会)に出品。その作品は大きな注目を集め、同会会員に推挙される。しかし、日本とヨーロッパの風土の違い、絵の具の質の差などに苦しみ、およそ10年間、作品制作は滞る。1930年頃から、効果的なデフォルメや省略による独自の画風を確立。《婦人像》(1930)や《金蓉》(1934)といった代表作を発表する。
ライバルとして知られる梅原龍三郎とは同い年で、同じく京都出身、聖護院洋画研究所やアカデミー・ジュリアンで共に学び、1930年代、洋画界の2大スターとして活躍する。その後の東京美術学校の教授就任(1944)、文化勲章受章(1953)も同時であった。