ジュール・パスキン(Jules Pascin 1885―1930)について
「エコール・ド・パリ」の代表的な画家の一人。スペイン系ユダヤ人の父の下、ブルガリア北西部の町ヴィディンに生れる。父の仕事を継ぐため、ウィーンの寄宿学校で学んだ後、17歳で父の穀物商社に入社するが、女性問題で父の怒りを買い、家を出る。以後、母の葬儀を除いてパスキンが家族に会う事は無かった。家を出たパスキンはウィーン、ミュンヘン、ベルリンなどを巡りながら美術を学ぶ。素描に優れた才能を発揮し、19歳でミュンヘンの風刺雑誌「ジンプリツィシムス」と挿絵画家として好条件で契約、経済的な安定を得る。だがその生活は生涯を通して、美術への情熱と旅、そして酒場などでの享楽であった。20歳でパリへ居を移し、カフェを中心に多くの画家達、中でもキスリング、スーティン、藤田嗣治らと交流する。ヨーロッパ各地やアメリカでの展覧会にも参加し、素描画家としての名声を高める一方で密かに油彩を研究する。第一次大戦中は戦火を逃れアメリカに渡り、ニューヨークを拠点にテキサス、ルイジアナ、メキシコやキューバにまで旅行する。1920年、再びパリへ戻った後は油彩の発表も行う。人気も名声も一層高めるが、アルコール依存症や妻と愛人との三角関係などで心身を弱め、1930年、45歳の時、自身の大規模な個展を目前に、自宅の浴室で自殺を遂げる。